新日本プロレス 棚橋弘至、引退発表

ハヤブサプロレス 2024年

2024年10月14日、東京・両国国技館大会において棚橋弘至が引退を発表した。

この日、デビュー25周年記念試合が行われたが、その試合後に突然の発表となった。ゴールは2026年1月4日。1年以上先だ。個人的には早いタイミングでの発表だなと感じた。今年引退する齋藤彰俊は7月13日発表、11月17日引退。発表から引退まで4か月。彰俊らしい潔さを感じる。
一方で、アントニオ猪木はファイナルカウントダウンを発表したのが1994年で、引退試合が1998年。4年も引っ張った。しかもカウントダウンと称しながら数字が増えていくカウントアップだったため、あと何試合やるのか分からないといういい加減さだった。本当に引退するのか?と疑ったぐらいだ (ちなみに私は東京ドームで行われた猪木の引退試合を見に行った)
そう考えれば、棚橋の発表のタイミングはちょうどいい塩梅なのかもしれない。

それと、多くの人が思ったことだろうが、社長とプロレスラーの兼任は難しいから引退は正解だろう。会社の運営が失敗すれば影響は大きい。ましてや新日本プロレスのような大きな会社ならなおさらだ。となればどうしても個人を犠牲にし、トレーニングの時間を減らすことになる。今年の棚橋の体や動きを見れば一目瞭然だろう。
中には私のようにプロレスリング・ノアの社長兼プロレスラーだった三沢光晴を思い浮かべる人もいるのではないだろうか。三沢の死は、それまでの激闘によるダメージの蓄積だけが原因だったとは思えない。

さて、棚橋弘至といえば、プロレス同好会(学生プロレス)からプロレスラーになった選手だ。大学在籍時に新日本プロレスの入門テストに合格し、長州力の進言により大学卒業後に入寮。そして半年後に真壁伸也(現・真壁刀義)を相手にデビューした。
若い頃の棚橋についてはほとんど覚えてなくて、女性に刃物で背中を刺された事件の印象が強い。はっきり言って私の好きなタイプのプロレスラーではなく、「新闘魂三銃士」でも柴田勝頼>中邑真輔>棚橋弘至というランクだ。
棚橋を「新日本プロレス暗黒期を支えた功労者」と考えているファンも少なくないだろうが、私には棚橋が特別な何かをした記憶はない。
と言うのも、私にとっては猪木が介入していた頃の新日本プロレスは「暗黒期」ではない。むしろ猪木が新日本プロレスから距離を置くようになり、「ストロングスタイル」「闘い」が失われた新日本プロレスの方が暗黒期なのだ。なので “私にとっての” 暗黒期で活躍した棚橋は、功労者どころか戦犯と言えるかもしれない。
中邑はMMAの試合に駆り出されたり、猪木に理不尽にぶん殴られたりしたが、棚橋は直接的には何もしていない(されていない)。通称「猪木問答」の時も、率先して猪木に物申したのは蝶野であり、棚橋は猪木の問いに対して「俺は新日本のリングでプロレスをやります!」と答えただけだ(あ、闘魂ビンタ食らったか)

では、棚橋は新日のリングで何もしなかったか。否、私にとって棚橋がした最大の功労は、オカダ・カズチカの踏み台になったことだ。オカダゴリ推しのアングルに会社は棚橋を利用した。通称「レインメーカーショック」が新日の歴史に残る出来事となったのは、棚橋のそれまでの実績・格があったからこそ。私はオカダのファンではないが、プロレス史に残る出来事・事件が生まれることには100%「賛」だ。

さて、最近1つ気になっていることがある。それは近頃「ストロングスタイル」というワードを目や耳にすることが増えてきた気がする、ということだ。ぬるい闘いが続いていた新日のリングに、原点回帰の雰囲気が漂い始めているのか。ゲイブ・キッドの存在がさらにその傾向を強めている気がする。ゲイブを推し、ジョシュ・バーネットを臨時コーチに迎えた新日本プロレス。「やっぱり闘いのある試合はイイよね」というファンの想いに応えるつもりなのか。

かつて猪木を遠ざけた新日が、猪木が亡くなり、反・猪木派の棚橋が社長になった今、再びストロングスタイルを取り戻すことには違和感を覚えるし、エンタメ路線で育った選手にとっては「急にストロングスタイルとか言われても…」となりそうだが、私はかつての闘いあるプロレスを見せてくれることを切に願っている。

ここまで長々と書いてきてなんだが、そもそもプロレスラーは引退試合やった後にしれっとリングに上がってることも少なくないから、そんなに真剣に捉えていない。

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